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2012年6月9日土曜日

国民を直視できない野田首相 彼の「国民生活を守る」とは何か


6月8日野田首相の再稼働宣言が行われた。1945年8月15日の昭和天皇による敗戦を認めた玉音放送に匹敵する歴史的スピーチなると思って注目していた。繰り返しビデオを見た。推敲に推敲を重ねたであろう原稿を無表情で読む首相は、一度たりともカメラをそしてその先にいる国民を直視しななかった。それが学生時代からの演説の名手野田氏がおこなった「直接国民に語りかける目的」で開かれた記者会見だった。

野田首相は国民生活を守るために大飯原発を再稼働させると言い切った。彼にとって守るべく「国民生活」とは何か。

彼は言う。
「国民生活を守ることの第1の意味は、次代を担う子どもたちのためにも、福島のような事故は決して起こさないということであります。福島を襲ったような地震・津波が起こっても、事故を防止できる対策と体制は整っています。」

事故を起こさないために再稼働するは論理的に成り立たない。「事故を起こさない」は再稼働の条件になるかもしれないが目的にはなりえない。「事故は決して起こさない」は空言である。事故は起こるものである。それが事故学の出発点だ。事故を決して起こさない保障は原発を稼働させないことであり、原発を存在させないことである。
次代をになう子どもたちの重荷になるのは事故だけではない。処理する方法のない放射性廃棄物の蓄積の問題である。野田首相はこのことに全く触れていない。再稼働でまた重荷を増やそうというのである。「次代を担う子どもたちのため」と言うことばを使ってはいけない。
「福島を襲ったような地震・津波が起こっても、事故を防止できる対策と体制は整っています。」私を信じなさいと言うのである。福島事故を経験した我々は彼が語らなかったこの言葉に来る次のフレーズを知っている。「しかし想定外の事態には、事故を防止できる対策と体制は整っていません」

野田首相は続ける。 
 国民生活を守ることの「第2の意味、それは計画停電や電力料金の大幅な高騰といった日常生活への悪影響をできるだけ避けるということであります」

国民生活を守るために安定、十分、安価な電力を確保しなければならないと言うのである。それがどうして原発再起動につながるのか。そこが問題である。


「数%程度の節電であれば、みんなの努力で何とかできるかもしれません。しかし、関西での15%もの需給ギャップは、昨年の東日本でも体験しなかった水準であり、現実的には極めて厳しいハードルだと思います。」これはまったくのデマだ。「電力需給検証委:原発再稼働なければ全国で0.3%不足」(毎日新聞 20120510日)原発再稼働なしでも0.3%の不足というのが政府の需給検証委員会の予測ではないのか。この程度の不足であれば「みんなの努力で何とかできる」、何とかしなければならない。その指揮をとるのが首相の仕事ではないか。15%の不足と言うデマで国民を脅すのは首相失格だ。
 
さらに野田首相は続ける、夏が過ぎて電力不足の危機を超えても「国民生活」は原発稼働なしには危機に陥ると。「化石燃料への依存を増やして、電力価格が高騰すれば、ぎりぎりの経営を行っている小売店や中小企業、そして、家庭にも影響が及びます。空洞化を加速して雇用の場が失われてしまいます。そのため、夏場限定の再稼働では、国民の生活は守れません」火力中心の発電では電力料金が高騰するから原発を稼働させたいと言う。


国民は福島事故後の処理と補償に莫大なコストがかかることを知っている。自然を元に戻すことを金額に換算することなど不可能に近い。原発が経済的に安価なエネルギーであるとの主張はすでに破たんしている。電力会社は原発の再稼働を想定しながら大幅な値上げを申請していることをみても明らかだ。

野田首相は「国民生活を守る」を大義名分に原発を再稼働させると言ったが、どの世論調査をみても、その国民の大半が現時点での再稼働に反対している事実を直視するべきだ。空疎な言葉を弄し国民の目を真っ直ぐ見ることができない首相は退陣させなければならない。

1 件のコメント:

  1. 駅前に立って出勤で急ぐ人たちの背中から演説?(独り言)を繰り返していた野田には国民の気持ち痛み苦しみ等が判るはずは無い。所詮、道端の草に等しい喰い逸れた政治屋に過ぎない存在だ。国民のためなどとの大口を叩いて欲しくない。何も判っていないなら黙っているべきだ。そもそもが党の総裁選びで適材として選ばれたのではなく党の分裂を避けるための人選で当たり障りの無い人として選ばれただけなのだから国家を背負っているなどと勘違いをしないで欲しい。

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