09年11月6日より韓国済州を訪問した。
ほぼ満席のKALはチェジュ空港に着いた。この空港そのものが事件の現場で大勢の市民の遺骨がここから出た話を後から知った。韓国一のリゾート、済州の表玄関済州空港が忌まわしい虐殺事件の現場の一つであった知る人は多くない。
これまでハルピン・光州・南京と一般民衆が人権を無視され殺害された現場に立ってきた。済州を訪れたのも、いわゆる「済州4・3事件」現場に立つことにより、活字から得た知識を越えた現場のインパクトを全身に浴びて自分自身が平和と人権を守りぬく生き方をする決意を固めなおしたいと思ったからである。
「済州島4・3事件」とは「48年4月3日、済州島で民衆が蜂起、半島南部の単独選挙反対を訴えたが、軍や警察に鎮圧された事件。8月15日に韓国、9月9日に北朝鮮が成立し南北対立が激化。韓国軍は島で焦土化作戦を進め民間人虐殺が相次いだ。犠牲者は3万人ともいわれる。」( 2008-03-29 朝日新聞 夕刊 2社会 )「弾圧は、李承晩政権下で54年まで続いた。事件は長くタブー視されたが、98年に就任した金大中大統領(当時)が真相究明に着手。03年10月、盧武鉉大統領(同)が初めて国の責任を認め、島民に謝罪した。」( 2008-04-02 朝日新聞 夕刊 1総合 )事件である。
2003年3月韓国政府の済州島四・三事件真相調査報告書は事件の原因と責任を以下の様に断定している。
「1948年の済州島では、国際法が要求する文明社会の基本原則が無視された。特に法を守らなければならない国家公権力が法を犯し、民間人を殺傷した。討伐隊が裁判手続きなく非武装の民間人を殺傷した点、特に子供や老人までをも殺害した点は、重大な人権蹂躙であり過誤である。結論として、済州島は冷戦の最大の犠牲となったと判断できる。」
この事件は長く続いた韓国の軍事独裁政権下では封印され口にもできない状態であったが、韓国が民主化された87年以降真相の解明が進められた。
済州4・3平和公園に行った。公園には08年3月に開館した4・3平和記念館・慰霊塔・位牌奉安所・行方不明者標石などがあった。
また1950年朝鮮戦争勃発時に、4・3事件でかかわったものを予防拘束 法的手続きによらず銃殺、6年間放置された132人の遺骨が発掘された旧日本軍空港遺跡(現済州空港とは別)を見た。大半の村民が虐殺され廃墟となった村130か所のうちの1つソギポ市のヨンナム村にも行った。
済州では日本による直接の関与はないが、日本帝国主義敗北後の戦後の米ソによる南北分断が背景にある。日本の朝鮮植民地化からの流れの中で起こった事件である。
ハルピン・光州・南京・済州どこも同じである。虐殺された民衆の墓碑、墓碑、墓碑である。涙、涙、涙である。どうして人間がこのようなことを一般市民にできたのか、暗い気持ちになった。しかし歴史の事実である。
いかなる状況でもたとえ戦時下でも、いかなる地域でも一般市民の基本的人権に対する侵害を許さない生き方をしたい。
そしていかなる大義名分があろうとも、どのような合法的な命令や強制を受けようとも一般民衆の殺戮に参加しない決意をしたい。
2003年10月盧武鉉大統領(当時)は済州島民への公式謝罪として次のように述べている。
「いま私たちは、四・三事件の貴重な教訓をいっそう昇華させ、『平和と人権』という人類普遍の価値を広めなければなりません。和解と協力で、この地上からすべての対立と分裂を終息させ、韓半島の平和、さらには東北アジアと世界平和の道を開いていかなければなりません。」
10月8日夕刻、雨に煙る漢拏山(ハルラサン)を見ながら済州を後にした。
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