Translate

2009年10月17日土曜日

犬の認知症と介護の社会化

家に帰るといつも見る庭の犬がいない。
朝起きるといつも聞く犬の鳴き声が聞こえない。
部屋にいると鳴き声が聞こえるときがある。空耳だ。
夜も眠れるしご飯も食べれる。
もちろん仕事もいつもどおりできる。
ペットロス症候群ではない。
空っぽの犬小屋を見ると悲しい気持ちになる。
娘は「涙をだして泣いたほうが楽になる」と言う。
でも涙はでない。


17年間飼っていた犬が死んだ。
この半年ぐらい「犬の認知症」で散歩にでてもまっすぐ歩けない。
小屋にいても狭い隙間があれば頭を突っ込み身動きがとれなくなる。
歩き出せば時計回りにぐるぐる回り、最後には目が回るのだろうその場に倒れこんでしまう。
尿をするときも便をするときもそれにふさわし姿勢がとれずによろめいて倒れてしまう。


死ぬ一ヶ月前は大変だった。
小屋の中や周りで尿や便をする。
食事ができない。食べる意欲はあるのだが、食べ物を口の中に入れ嚥下することができない。
介助してスプーンで口の中に食べ物を入れなければ飲み込めない。
犬の介護休暇があればとりたいぐらいだった。


極めつけは毎晩夜中の2時ぐらいに鳴きだすようになった時だ。
泣き出せば布団から起きて、体をさすり声をかけると泣きやむ。
ようやく布団に戻るとまた鳴きだす。
仕方がないので真夜中に散歩に出る。
昼間の散歩とはうって変わって元気に歩く姿を見ると、まるで人間の夜間せん妄と同じだ。
「こんなことは長くは続かない。夜鳴く間がまだいい時なのだ」と自分に言い聞かせた。


ある晩は、何をしても鳴き止まない時があった。
近所の人の迷惑を考えるとつらかった。
このまま寝ないで朝を迎えるとと思うと、明日の仕事が気になった。
途方にくれて思わず手で口をグッとつかんで塞いでしまった。
もちろん呼吸は鼻からできる。
うちに来てから一回も叩いたことがなったのに、無理やり口を塞いでしまった。
1分ぐらいだったのだろうか。
手を放すと、小屋に誘導すると静かに寝てしまった。


あんなことをしなければよかったと思っている。
認知症の医療や介護の専門家を自任する私が切れるとは。
介護者には「もし切れかかったら、その感情を否定することはありません。その場を離れなさい。そうすれば気分を切り替えることができる。」と指導してきた。
でも現実は大変であった。


犬の介護でこうであるから、人間の介護はもっと大変だ。
介護を個人や家族の責任にしてはならない。
そのままで放置するとたくさんの悲劇を生むことになる。
社会全体で介護をする体制を作らなければならない。
犬の介護と看取りを通じて、介護の社会化の必要性を痛感した。

0 件のコメント:

コメントを投稿